いだてん 第26回「明日なき暴走」

人見絹枝物語。ドラマとしての完成度は本当に素晴らしかった。菅井小春さんの演技の「人見絹枝さんって本当にこういう人だったんじゃないか」と思わせるパワーに圧倒されたし、ライティングや画面構成、小気味よいセリフの間などの演出に何度も見入ったし、笑いと苦みの入り混じる絶妙な宮藤官九郎節に心底打ちのめされた。でも、その内容がさぁ…! 描かれた人見絹枝さんの壮絶な人生がさぁ…! こうやってドラマのたった一話として消費されてしまっていいんだろうかとか、こんな悲しくてやるせない話を「感動した」とか語っていいんだろうかとか、今の時代はこの時から少しでも前に進んでいると言えるのだろうかとか、モヤモヤする気持ちを整理できない。

人見絹枝さんのことは、有森裕子さんの銀メダルフィーバーの時に「人見絹枝以来の日本女子陸上のメダル」と散々言われていた(気がする)ので、その時名前を知った。でも、当時それほど陸上に興味がなく、そういう名前の人がいたくらいの認識しかなかった。今回その人生が女子スポーツ振興の人柱そのものであったことを知って愕然とした。人間とはかくも学習能力のない生き物であるのか…。現在もきっと同じようにそこかしこに人柱をたてているのであろうことに絶望する。

河野に象徴される「国民」は、みんながみんな「人見絹枝」に期待する。各々がそりゃーもう勝手に「日本の希望」とかを託して期待する。「人見絹枝は負けない」という言葉の「人見絹枝」が彼女個人ではなくそれぞれの思い描く「日本人を象徴する何か」に差し替わっていることに恐怖しかない。そういう人たちのために何で彼女があんなに苦しまなければならなかったのか。そして多分そういう風潮は今も変わらず続いていて、そのことを多分このドラマは訴えているのだと思うんだけど、強いメッセージ性というよりは寓意というか微弱な電波くらいの発信性のような気もして、妄想電波を受け取っているかのような戸惑いを覚えている。この胸のモヤモヤをどうしたらいいんだ…。

国民性なのか人間という生き物の原罪なのか。なぜ我々は他人に勝手に思い入れ、そして勝手に裏切られたと傷つき、やがて勝手に攻撃するようになるのか。自分の感情を守ることが最優先で、相手に感情があることを徹底的に無視するその姿勢は今も変わらずむしろ増長しているようにも見えるし、自分にもそういう「人間の性質」があるのだと突き付けられているようで抉られる。こういうとこ、このドラマは本当に容赦ないと思う。

有森裕子さんのメダルが「人見絹枝以来」だったことは、有森さんの功績という意味で使われているのだろうしその功績は確かだけど、人見絹枝さんと有森さんだけが奇跡的に身体的に優れていたというはずもなく、その間の女子陸上の才能はいろいろな要因で摘み取られてきたのだろうなぁと容易に想像がつき、そこでもやるせない気持ちになる…。そう考えると嬉しそうに連呼できる言葉でもないし、これまでそこに全く気付かなかった自分の無関心さにもゲンナリする。

今回はドラマがあまりに素晴らしかった結果、その内容があまりに深く胸に刺さり、そこから派生して自分が今社会に感じている矛盾なり嫌悪なりのマイナス部分が炙り出され、結果的に自分一人で鬱々とした想いを持て余すという、よくわからない経験をしている。面白いドラマによって社会の面白くない部分をより一層意識するというこの構造、もしかして「社会派」というやつでは!?これまで理解できなかった「社会派」というジャンルこれでは!?と目から鱗。もしかしたら見当はずれかもだけど、私にとっての分類はこれでいい。思えば竹早での女子スポーツの時も同じようにダメージ受けて感想止まってたなぁと思うと、私にとってのクリティカルな部分ってこの辺なのかな。そして宮藤官九郎さんとの相性の良さ(あるいは悪さ)もこの辺なんだろう。時にはこういうドラマも必要だけど、もっと楽しく心躍るドラマを見たいという気持ちも無くはなく…ジレンマ。

増野さんとりくちゃん。シマちゃんの志が受け継がれていることに涙する。増野さんの「人見絹枝、バンザーイ」という言葉でも、多分「人見絹枝」は「シマちゃんの女子スポーツへの夢」に容易に置き換わっていて、増野さんですらそうなのだから、人間というのはそういう生き物なのだと受け入れていくしかないのだなぁと思う。そういう生き物であるという自覚を持ちながら、それが相手あるいは他者の負担になり過ぎないように注意して生きていくしかないのだろうなぁ。生きるって難しい。

まーちゃん。本当に心底そばに寄りたくないキャラなんだけど、そういう人がいないと前に進まない何かはきっとある。でもやっぱり近寄りたくない。無神経に見えるんだけど相手の感情を理解できないわけじゃないんだよな。むしろ理解しながらギリギリのところで攻めてくる感じはサイコパスの素質有りなのでは…?そしてそういうキャラに一定の魅力を感じてしまうという事実に苦虫を嚙み潰したような顔になる。まーちゃん…怖い男…。

人見絹枝さんと二階堂トクヨさん。「ご幸福ですか」という言葉の残酷さが浮き彫りになってた。「スポーツの成績と結婚、両方掴める」と応援した二階堂トクヨさんは善良な人だと思うけど、「競技スポーツは嫌いだけど、あなたは品があるから応援したい」という言葉も私には結構残酷に響いた。トクヨさんにとっては人見さんが傷つき苦しむ姿は自分の理想とする「女性の品格」みたいなものを補強するもので、だからこそ人見さんを心から応援して支えたのだろうなぁと…それは結果としては人見さんを救ったのだろうし、だからこの場では正しい結果なのだけど、誰にでも通用する真理ではないし、そればかりを尊ばれることに対するモヤモヤと言うか…うーむ。トクヨさん、いろいろ解釈が難しい人だ。でもドラマの人見絹枝さんは心底トクヨさんを頼りにしていたし、あの校長室(?)での光輝くシーンは本当に美しかった…。

人見絹枝さんの死がナレーションで済まされてしまったのは多分メッセージ性を強め過ぎないためだったんじゃないかと思うし、紀行でもさらりと流されていたけど、どう見ても無理がたたっての早世だし、才能に溢れた若者を使い捨てる社会に絶望しかないけど、今は途上でもその頃より少しでも前に進んでいると信じたい、信じるしかない…そうでなければ悲しすぎる。