おんな城主直虎 第40回「天正の草履番」
森下さんが脚本した「天皇の料理番」のセルフパロのサブタイトル。
家康と直虎の対面。これまでこの二人は腹を割って話す機会がそういえばなかったなぁと思い返す。家康の方が直虎に気を使っているのは、やはり井伊谷での対応を軽んじたことへの罪悪感なんだろうなぁ。年齢は家康の方が上だったはずだし。ただ、虎松の処遇に関して直虎側が恨み節なのに対して、その意向を汲むのではなくあくまでも家康自身の「虎松は伸びるという直感」を重視して結局虎松はそのままの扱いとなるあたりが、家康と直虎の格の違いみたいなところあった。話は聞くし面白いと思ってるけど、その言葉で簡単に前言を撤回したりする気は無いのね。そういう見え隠れする不遜さ?みたいなのがとてもリアルな気がした。
松下の父上いい人過ぎるだろ~~!!;;;; ごちそうさんの詐欺師の印象を払拭するいい人っぷりに「ごちでフォローできなかった分今回いい役やってもらおう!」的配慮を感じたりもする。そして心の奥底にある嬉しい気持ちを押し殺して「松下の夫のために」怒るしのさんにもほろりとさせられた。でもわかるわ~この光のパワーを浴びてたらそういう心持ちにもなるわ~。今回なつさんからも「常慶が松下の兄を光と仰いでいる」って話が出てきたけど、この戦国時代に善良な当主を持つってそれだけで松下の人間は精神的に救われるんだろうなって。
そして常慶さん。兄のために虎松を取り戻そうとあれこれ手を尽くしていたわけだけど、亥之助から当の虎松の秘めた覚悟を聞いて「やむなし」って思ってくれる、こちらもいい人なんだよなぁ。家のメンツだけに囚われず、あくまでも虎松という個の気持ちを尊重してくれる度量がやはりあるんだなぁって嬉しい描き方だった。
虎松と亥之助の草履番としての成長物語が心地いい。一度失敗してからの、どうしたらうまく草履をさばけるかをあれこれ試行錯誤して、その結果がすぐに出る流れが実に気持ち良い。虎松の美点は野望が地に足着いていて、なおかつそこに至るための地道な努力というものの価値をきちんと見いだしているところだよなぁと。日の本一の草履番と言われて、本当に日の本一の草履番になるために、草履投げを特訓する虎松。一歩ずつ進むことの大事さをちゃんと知ってる。このあたりはしのさんの育て方が正しかったんだろうなぁって思うと、しのさん贔屓の私は嬉しい。
おんな城主直虎 第39回「虎松の野望」
おんな城主直虎 第38回「井伊を共に去りぬ」
おんな城主直虎 第37回「武田が来たりて火を放つ」
おんな城主直虎 第36回「井伊家最後の日」
瀬名姫と家康劇場。瀬名ちゃんが井伊のことで家康に詰め寄る時の言葉が「どうして井伊を見捨てたのか」じゃなくて「見捨てたままということはございませんな?」って言い方なのがすごく良かった。この時代、戦の流れによっては「一度は見捨てる」ってことがあり得ることだし、もう起こってしまったことを詰っても仕方ないっていう分別があるって描き方に見えて、瀬名ちゃんは気が強いけどちゃんとわきまえてる描写なの嬉しい。於大の方への対応も、上手くいってない感じとそれでもきちんと引き下がるところを知っている態度が、瀬名ちゃんの賢さをきちんと見せてくれてると思う。あ~~この夫婦のこの先も辛いんだよなぁ~~;;しんどい。
近藤殿の「クララが立った!」はネタ過ぎるだろ…w でもこのわずかのシーンで近藤殿の人となりがわかるの、とても上手い。憎しみだけで井伊を乗っ取ったんじゃないんだよね。たまたま木材泥棒の一件で下地があって、たまたま徳川の井伊侵攻でチャンスが出来ちゃったから、流れに乗ったまでで。実際に成し遂げた後には後ろめたさもあって(これは憎しみがあったからこそ感じる後ろめたさでもあるんだろう)、だからこそ井伊の家臣を召し抱えてもいいという申し出が出てくる。っていう流れがすんなりと理解できた。上手いよなぁ本当に。
そして包囲網のように松下からは虎松の養子縁組の話。井伊家の敗戦処理としては願ってもない状況がどんどん積みあがっていく。戦で死なずに済んだ者たちのうち、希望者はそのまま武士として新たな主に仕えて生計を立てていく目処が立ち、次期当主候補は(土地と名は違ってしまうけれど)領主となる道筋がつき、後は「井伊家を再興する」という名目だけを諦めればすべてうまくいきそうだというところまで追いつめられる。そして、面白いなぁと思ったのが、直虎は決して「井伊家を再興したい」という望みを自分自身で強く持っているわけじゃないんだよな。皆がそう望むから。そのために皆で頑張ってきたから。これまでの犠牲があまりに大きいから。「目指さなければならない」っていう思い込みで諦められなくなっている。そして、自分の中にもやっぱり「諦めてしまうのは悔しい」という気持ちもないわけではない。そういう複雑な直虎の心情がすごく伝わってくる。
それをリセットするきっかけになるのは、やっぱり龍雲丸なんだな~。「断っちまえばいいじゃねぇですか」「諦めちまえばいいじゃねぇですか」どっちも同じ程度の重さしか無いとでもいうように、どっちでも何とかなるとでもいうように。でも、そんなに簡単に放り出せることじゃないことも、知ってるんだろうな。でも龍雲丸はあくまでも直虎に別の考え方、別の道を指し示す役割を担っているだけで、運命の相手っていうのとは違う気がする。なんだろう、同じものを見てはいない感じというか。あと、リセットという考え方のきっかけは龍雲丸なんだけど、背中を押すのは龍雲丸じゃないというのがスイーツじゃないなぁって思うところ。ここ、萌えに走りたければいくらでも龍雲丸プッシュ出来るところなのに、しないんだよなぁ。
そして、直虎の背中を押して引導を渡すのは南渓和尚でした。南渓和尚の「そなたはようやった」って慰労の言葉に「ご期待に沿えず申し訳ありませんでした」って泣きじゃくる直虎のシーンは本当に切なかった…これまで期待されて望まれて、それを叶えることを「自分の望み」として生きてきた直虎ですら、この状況はどうしても無理だ手詰まりだと感じていて、それでも諦めることを自分一人では決断できないんだよな。でも南渓和尚が「それでいい」って言ってくれて、ようやくその重荷を下ろすことが出来たんだろうなぁ。悔しさも大きかっただろうけど、ホッとしてもいるんだろうなぁ。張り詰めた糸が切れたような鳴き声に胸が詰まった。
この、直虎の弱さをまっすぐに描くのが面白いところだよなぁと思う。自分自身で「井伊家再興を諦める」って決断をする人物に描くことだって当然出来るのに、あくまで「自分では決断出来ない」人間として描いちゃう。でも、昔の少女時代のおとわなら「絶対諦めない」って結論した気がするから、これはやっぱり直虎の成長あるいは変化なんだろうなぁ。虎松を説得するところも、過去の己の発言を撤回する流れだったし、がむしゃらで向こう見ずな過去の「おとわ」を、ここで一度脱ぎ捨てているように見える。これが前向きな変化なのか、挫折ゆえの低迷期としての描写なのか、まだ3か月あるのでじっくり見続けたい。
今週の直之。「所詮はおなごじゃな」って昔の言葉を言い放った後、「俺はそのおなごに一生ついていくつもりだったんだ」って絞り出すように続けた直之に泣いた。直之は直虎を崇めていた訳じゃない。女城主としての弱さ、頼りなさ、甘さ、全てを弱点としてきちんと受け入れた上で、自分が使えるべき相手として直虎を選んだんだよな~。そこはある意味対等な主従であって、だからこそのこのセリフだと思うとホント泣ける。あんなに小憎らしかった昔の「所詮はおなご」の言葉すら、こうやって伏線として回収してくるのすごい。
虎松の演技に相変わらずため息が出る。今の時代の子役スゲェ…。そして何やら悪巧みを始める南渓和尚…直虎を焚き付けるのを諦めたと思ったら、その矛先を虎松に向けるとか、ある意味一番腹黒くてしたたかだよ…誰よりもしぶとく井伊家に執着しているのは、実は南渓和尚なのかもしれないなぁ。虎松の新たな父上、どっかで見た顔だ…どこだっけ…と気になって、調べたら「ごちそうさん」の詐欺師!和枝ちゃんを騙した詐欺師じゃないか!!脚本家繋がりの配役なのかなぁ?面白いな、こういうの。
そして龍雲丸の妻問いシーンはめちゃくちゃ笑った!「名前を教えてもらえますかね?」「村と容姿がわかれば調べられると思うが」「かわされてるんですかね?」「何やら話が噛み合っていないようじゃな」「だいぶ」って言った後の直虎が(というか柴咲コウさんが)フッってしんどそうに笑うのが本当に絶妙のタイミングと演技で本当に大好きだ!プロポーズのシーンなのに、甘さの中に笑いを入れてくるの、本当に森下脚本らしくてニヤニヤが止まらない。ニヤニヤが止まらないのに、どこか甘さの中に空疎さが漂うプロポーズシーンでもあって、この先が順風満帆に幸せいっぱいとは行かないことを既に予告しているかのよう。
そして龍雲丸は「一緒にいる。とわを残して死なない」って言ってプロポーズしたけど、これ多分フラグなのかなぁ…個人的には(伴侶という体裁でなくても)龍雲丸は最後までとわを陰に日向に支えてあげて欲しいなって思うけど、そうならないってことなのかなぁ…どこまでも覚悟を求めてくる酷い脚本だよ!(誉めてる)
そして直虎はおとわにもどり、幸せに農民として暮らしましたとさ。めでたしめでたし。
ってところで北条氏康が亡くなり、マツケン信玄が「死におった♪ 死におった♪」とサンバ(違)を踊って事態は急展開する。次回「武田が来たりて火を放つ」ってサブタイトルが既にズルい!目が離せない!
おんな城主直虎 第35回「蘇えりし者たち」
よかった、さすがに三週連続での鬱展開はなかった。再生と復活の物語。
政次の死のショックで死人のようだった直虎が、気賀の惨状を知って飛び起きて走り出す姿に切ない力強さを感じる。ショック療法的な効果なんだろうけど、政次の死に対抗するショックとして気賀での虐殺って重すぎるだろ…でもそれくらいの衝撃じゃないとこちらの世界に戻ってくることは出来なかったのかもな。
たった一人でも生き残った者がいて、なんとか助けることが出来たという事実が、直虎を、南渓和尚を、そして方久を救った。絶望にうちひしがれる中での、小さなでも確実に身近にある希望がどれだけ支えになることか。そして龍雲丸にとっても、自分一人が悪運強く生き残ってしまったという事実に対して、直虎の「生きていてくれて良かった」という言葉がどれだけ許しを与えたことか。心に大きな傷を負いながらも生き残った者たちが、肩を寄せ合ってそれでも生きていく姿が力強かった。「ごちそうさん」でかっちゃんが死んだ後のめ以子の悲しみとその中でのあがきが、やっぱり同じテーマだったような。どんな絶望的な中でも人間は生きていけるし、生きようとしていいんだっていうメッセージに見えた。
全然関係ない…というか小さいことなんだけど、ああやって死体ばかりがゴロゴロとある戦場で、生存者を探すシーン。今回助かったのが龍雲丸だけっぽかったんだけど、こういう「一人だけが生き残る」ってエピソードって、傍から見てると「え、本当に一人だけ?大丈夫?みんな心音まで確認した?(龍雲丸みたいに)声出せないけど生きてる可能性ない!?」って心配になる。
直虎が龍雲丸に対して「勝ちとはなんであろうか」って独り言のように問いかけるのが印象的だった。城を追われ、政次は失ったものの、家の者はみんな生き延び、民百姓を戦に取られることもなく生きている井伊家と、家長を失ってまだ幼い跡継ぎが戦場へ赴かなければならない鈴木家、井伊を奪ったもののその後も戦にかり出されて怪我をして二度と馬に乗れない体となった近藤殿。奪われた者としての恨みはあるものの、奪った相手も必死で生き、そして苦しんでいる姿に憐れみを感じるというのがものすごい説得感あった。直虎と一緒に徐々に許す心を修得してく感じ。
氏真と家康の会談。戦時中の疲れ切っていい感じに乱れた氏真の髪とメイクが職人技。表情の演技も素晴らしい~。そして繰り返し描かれる家康の厭戦気質。直後の酒井との「武田が黙っていますかな?」の後の表情といい、こうやって徐々に家康も成長していく姿が描かれるのがいい。そして氏真のお坊ちゃんぷりがやっぱりいい。「蹴鞠で勝負を決めればいい」とか突拍子もないこと言い出したと思ったら、その後自分で「でもそうなると蹴鞠が上手い者を争ってやはり争いが起こる」って本質ついた発言させるのが素晴らしい~!物事の真理を見抜くことが出来る聡明さがありつつ、あるいはあるからこそ、戦国を生き抜く才覚には恵まれなかった氏真。でもこの後自分が得意とする雅な知識で生き抜いていけるんだから、この人も戦に負けて勝負に勝ってるよな~と。
龍雲丸、髪縛ったまま水被ってたけど、そういうものなの…?あれが当時の一般人の慣習なのか、髪型がカツラだから崩すわけにいかないという大人の事情なのかわからない…多分大人の事情だと思うんだけど確信が持てない…
方久。酒井のあの残虐な独断以降、右往左往し目の光が消え抜け殻のようだった方久が、昊天さんの薬調合を見て銭の匂いをかぎつける感じにニヤリとする。世を儚んで死んで行った者を弔うわけでもなく(先週の予告は明らかにそういうミスリードだったよね?)、銭のために薬を扱う、そのためには僧にならなければならない、という現実路線一直線の帰依に「さもありなん」と。でも「死の商人」を厭わなかった方久が、「生の商人」になろうとしているのが良かったな。方久は方久のフィールドで、今よりはマシな世界で金儲けすべく復活するのが微笑ましい。
口移しで薬を飲ませたのは南渓和尚だ、からの南渓和尚の過剰なスキンシップに思わず笑い転げる直虎と、その笑顔を嬉しそうに見守る寺の僧侶たちが愛おしい。そして隠し里で流行しているらしい「伝わりそうで伝わらない(?)但馬物真似選手権」が可笑しかった。これどこまで脚本にあったんだろう?そしてこの物真似選手権のこと、高橋一生さんは知ってるんだろうか?あのみんなの物真似が、メタ的に撮影しながらみんなで笑い合って撮ってる感じがして、すごくすごーくいいなぁって。
それまで誰も触れなかった政次の話を、ああやってみんなが「こんなだったね」って言いながら笑い合うのって、最高に「但馬が今の井伊を守っている」ことになるよなぁって。そしてなつさんの涙と笑顔が尊くてなぁ…なつさんは政次が井伊のために尽くしていたことを誰よりも近くで見てきた人なので、あれほど忌み嫌われていた政次が、死してこうして井伊の民の中に生きているのを見たら、そりゃー嬉しかろう。
・昊天さんたくさん出てきて嬉しい~
おんな城主直虎 第34回「隠し港の龍雲丸」
前回の政次の最期はツラい面もあったけど、どちらかというとドラマとしての見せ方に半ば興奮気味に「すごいものを見た」と思ってたものだけど、今回は完全に痛めつけられた上での絶望しての「すごいものを見ちまった…」だった。ある意味、あの衝撃の33話をそっくりそのまま伏線にしたような今回の34話だったような…。脚本に「あんな甘っちょろい物語で悲劇を語るな。真の地獄を見せてやる」と言われた気分…(血反吐を吐きながら)
何がツラいって、龍雲党に代表される「気賀の民」の死の無慈悲な無意味さ。いや、意味はあるのか。今川(というか大沢)に対する見せしめという、徳川側にとっての意味は、まぁ確かにある。でもそれは死んでいく民にとっては何の救いでもないわけで…誰に、なぜ、何のために殺されるのか、きっと誰もわからないままだったに違いない。ただただ「そういう時代だから」と散っていく、散らされていく命に言葉も出ない。先週の政次の死は、これと対比させるための、あの過度に装飾された死だったのかもしれない…あの舞台演出のような不自然な死に様には「フィクションはこうやって見せ場を作れるけど、戦というのは本来人の命が軽々と無意味に失われていくものですよね」って現実を突きつける意味があったかのような。先週のドラマに無邪気に感動した己の甘さを痛感する…どうしてこんな脚本書けるんだろう…脱帽。
ただ死んで行く民ってだけでもSAN値をゴリゴリ削られるのに、あそこが堀川城でそこに龍雲丸がいるという容赦のなさよ。龍雲丸には城に対する不信とトラウマがあったわけじゃないですか。それを直虎が(今となってはちょっと甘っちょろい感じで)「それなら理想の城を作ればいいではないか!」とか無責任に言って、あの堀川城が出来たわけじゃないですか。通常のドラマだったら、龍雲丸がトラウマを克服すべく作ったこの城によって、民を守り逃がすことができた、みたいな痛快な展開が待っているはずじゃないですか。ドラマってそういうものじゃないですか。それが、逃げるための隠し港で、逆に乗り込んできた援軍(?)に皆殺しにされるこの展開どうよ…自分の作った城で仲間が死んでいくのを目の当たりにする龍雲丸…鬼か…森下脚本鬼過ぎないか…(何度目だこのセリフ)
今回の最大のヒール役、酒井忠次。演技があまりに悪役すぎて混乱したけど、歴史上では最後まで徳川忠臣だし、井伊直政とも関係性悪くなさそうだし、何故こんなに悪意向きだしの演技なんだろう?ってちょっと気になった。意味のない憎まれ役を作るとは思えないので、森下さん的に何か意味があるんだろうとは思うんだけど。家康のことを軽んじてるようにも見えたけど、そのあたりもなんか伏線になってるのかなぁ。
三人衆鈴木殿と南渓和尚のやり取り。ここもちょっと「ん?」て思ったとこだったな~。鈴木殿自身が「近藤殿を諫めることが出来なかった」と反省するのはまぁ「いい人なんだな」って思うんだけど、そこまで責任感じることかなぁって。記憶が混濁してる直虎を見て恐縮もしてたけど、鈴木殿にとって井伊ってそこまで配慮する相手なんだろうか?視聴者は政次の真の姿や直虎との絆を知っているからこそのショックだけど、鈴木殿にとっては政次は井伊家を狙う奸臣のはずで、直虎の気の病みようにそこまで同情するもんだろうかってちょっと疑問に思った。疑問というより、なんていうか取って付けた感?
あと、南渓和尚。政次の辞世の句をわざわざ届けてくれた相手に「但馬を生き返らせる術を」とか言っちゃうのは八つ当たりが過ぎるような?これが直虎の言葉ならまだわかるんだけど(直虎は感情的にそういうことを言いそうなキャラだし)、これまで昼行灯決め込んでた南渓和尚がいきなり怒りをあらわに言うのが超違和感あったんだよな。私がこれまでずっと南渓和尚のキャラを読み間違っていただけなのか。後藤隊長もキレる時はキレるって話なのか。感情が制御できないくらい、絶望が深いという表現なのかもしれないけど、こっちも取って付けた感がなきにしもあらず。
これ、鈴木殿がこんなに恐縮しきってすまなそうにしてる&南渓和尚が怒りを隠しきれずに鈴木殿に八つ当たりするのどっちか一つだったら、上手く消化できた気がする。違和感が二つぶつかって、見ていてなんとなく白々しいというか、描写がくどいというか、言い訳めいてるというか。
あ~~~龍雲党が(頭以外…だよね?)みんな死ぬなんて聞いてないよ~~~~!ショック大きすぎるよ~~~~!早く来週の展開を見たい。
・「殿の手にかかったなら」って静かに政次の死を受け入れるなつさんから漂う未亡人感…!
・昊天さん祭り!そして傑山さんの相変わらずの二の腕!!