西郷どん 第27回「禁門の変」

そういえば桂小五郎玉山鉄二さんなんだった! 出てきた時思わず「山川!?会津山川大蔵がどうしてここに!?」と思ってしまったので、八重の桜罪深い。

個人的に幕末の動乱ってそれぞれがそれぞれの正義のために戦ったから起こったことだと思ってるし、その根本には朝廷内での各武家勢力をバックとした貴族による権力争いがあって、それに孝明天皇という方針がコロコロ変わる(ように見えてしまう)トップがいたことで混乱が加速したという認識なので、こうやって「西郷は長州に対して理解があったのに、慶喜(と会津)によって仕方なく動乱が起きた」みたいに描かれるとドッチラケな気持ちになる。わかりやすさってさぁ…そういうことじゃ無いと(私は)思うんだよ…いや、こういうわかりやすさが必要な人に向けての大河ドラマなのかもしれないけどさぁ…。

別に西郷が長州に対して理解があった、戦不支持だったという設定自体は全然ありだと思うし、それはそれで構わないんだけど、何度も書いてるけど「なぜ西郷がそう考えるに至ったのか」というのが全然見えないからモヤる。結局未来の薩長同盟から逆引きした制作側のご都合設定なんでしょ?って思ってしまう。役者の演技のおかげで桂が信頼に足る人物だということはちゃんと伝わってくるけど、桂は長州そのものではないし、長州だって一枚岩じゃないし、実際には薩摩だって西郷の一存で何もどうにもならない状況なわけで、それなのに安直に「桂がいい人=長州と戦うべきではない」と西郷に判断させるというところに制作側の怠慢を感じる。会津が悪者でもいいけど、だったらせめて西郷側の正義くらい納得いく形で描いてくれよ…。桂という個人を信頼出来るというなら、会津にだって信頼出来る個人はいると思うよ?山川大蔵って人がいてね…桂によく似た、義侠心あるアツい男だよ…。

蛤御門の変はすっごい解釈で描いてきたな、という印象。最後まで戦いたくなかった西郷は敵将のみ倒して兵士に武器を捨てるよう呼びかけ、長州兵がそれに応じかけたところで横から出てきた会津が長州を虐殺したように見えたんだけど、そういう風に作ってあったよな?オマケに京に火を放ったのが会津っぽく説明されてなかった?酷くね?ちょっとこれ酷くね??当時の京ではそういう受け止め方をされたという描写かもしれないけど(幕府の評判が悪く、長州には同情票が集まったらしいし)、であればせめて事実を一言でも誰かに触れさせるとか、そういうバランス感覚が重要じゃない?確かにそれぞれの正義があっていいし、それを正当化する創作エピソードもあっていいと思うけど、そのために他者を貶めるのはダメじゃね?歴史は特にそれやっちゃダメじゃね??初心者に向けてわかりやすさをうたう(つまりあまり歴史に詳しくない視聴者に向けてる)テレビドラマで、一方的に片方を悪者と解釈できてしまうエピソードをぶち込んでくるその姿勢にドン引きする。わかりやすさとは一体…。

あまり過去作と比べるの良くないと思うけど、八重の桜で見た薩摩とか長州って会津にとっては鬱陶しい存在なんだなっていうのは十分共感出来たけど、薩摩や長州そのものをそこまで悪く書いていなかったと思うんだよな。吉川晃司さんの西郷は今でも私の中でダントツでカッコよくて誠実な印象だし。長州の久坂玄瑞須賀貴匡さんは超イケメンで好感度高いし。真木和泉嶋田久作さんの祝詞のシーンとか凜としてて今でも思い出してため息出るし。戊辰戦争での薩長軍の行いなんて、清廉潔白過ぎて逆に配慮を感じて白々しいくらい(ただし世良修蔵を除く)だったのにな~。それに慶喜の裏表っぷり&小心者っぷりは会津から見たら腹立たしいエピソードばかりだったのに、私のとっての慶喜小泉孝太郎さんって「憎めない愛すべきキャラ」として定着してる。それでも最終的には「会津ぅ;;;;;;」って思わされたんだから、力がある人が書けば出来ないはずないのに、面倒くさくて投げたのか、視聴者がバカだと思ってるのか…こういうところで脚本家への信頼が下がる。

あと、慶喜暗殺未遂事件の犯人は水戸藩士ってことが判明してたけど、これって史実なんだろか?攘夷派の水戸家にとって開国派の慶喜を諸悪の根源と考える一派がいることは全くおかしくないしあり得るなぁ。ただ、以前斉昭が慶喜を将軍にって推してた時に自分は散々「将軍なんかやりたくない」って駄々こねてて、その頃から別に水戸の方針に従う気とか無さそうだった慶喜が、いきなり「身内の水戸から…」みたいに絶望してるの見ると、いやいやお前こそ身内の意向無視して好き放題やってましたよね?的な気持ちにならなくもない。とりあえずこの平岡某って人の事件は全然知らなかったので面白かった。一点だけ残念だったのは、慶喜が水戸家が犯人だったことに気付いて「誰が敵で誰が味方か」って壊れていく(?)展開、先週既にこのセリフを出してしまっているので「またかよ」って思えてしまったこと。先週はふさぎ込む慶喜描写だけにして、敵味方がわからないという煩悶は今週一気にやった方が場面として映えたと思う。そして松田翔太慶喜はそのままゴッシーに見えて笑った。

多分、西郷どんは水戸黄門的な時代劇枠として見るために作られているんだろうなぁとは思う。幕末大河として、年代別に大きな事件がいくつもあって、それぞれに(歌舞伎とか読み本とかでの)舞台映えする逸話があって、それを「前後のストーリーをつぎはぎして、見栄えがする部分だけ型として派手に見せる」というコンセプトで作っているんじゃないかなと思う。それが面白いという人もいるのだろうし、そういう大河ドラマもあっていい…と己に言い聞かせながら見続けるのバカバカしくなってきた。そろそろ脱落してもいいかもしれん。