正解するカド 視聴後感想

途中までは手放しですっごい面白かったんだけど、最後の3話くらいが自分の中でうまく咀嚼できなくて、モヤモヤが最後まで残った作品だった。

以下、完全ネタバレ感想。

 

 

 

 

 

一番モヤモヤしているのは、天才交渉人たる真道にとって、最後のザシュニナとの交渉は成功なのか?ってところなんだよな。なんとか発生装置を武器ではなく交渉の道具と考える、ってセリフや、交渉人は両方win-winを目指すっていうこれまでの言動から、最終的にザシュニナと決別するもザシュニナは地球を含む宇宙について納得して不干渉を選ぶ(それがザシュニナにとってのwinでもあるという気付き=サプライズ)という着地点を目指すんだと勝手に思っていたので、ザシュニナを殺して異方の干渉が排除されめでたしめでたし、というのは、自分だけがwinになってない?それ本当に交渉が成功したって言えるの?騙しうちってやつでは?という残念な気持ちになってしまった。作者側にとっては、交渉して両方に満足を、というのはそれほど重要なテーマじゃなかったってことなのかな。ザシュニナは驚きたがっている、サプライズを贈りたいっていう真道の考え方にはちょっと感動してたので、結果的にそのサプライズは「アレ」だったわけで、それは…「驚き」じゃなくて「呆れ」というか…なんというかいろいろと残念だった。

途中6回くらいで真道のお母さんが「異方存在は子供を作らないのか」みたいなこと言ってて、それが確かに伏線で回収されたことになるんだけど、少なくとも私は「そういう方向での回収を望んでいたわけじゃないんだ」と強く主張したかった。人間と異方存在の子孫が、人間も異方存在も越えるさらに上位次元の存在となって、その越えた存在としてさらに上位から異方存在をねじ伏せて消し去るという結論に見えてしまって、それはむしろ一番やってはいけない方向性だったのでは…?って思ったんだけどどうなんだろう。下位次元からでも上位次元に対してアクセス可能で、下位次元も上位次元(の認識)を変えうるのだ、という話が見たかったんだけどな。あるいは子供が解決策となるなら、テンプレだけど異方と宇宙の相互理解のための架け橋であって欲しかった。「悪い人ではなかった」とか言わせてたけど、それを排除したあなたが言う?みたいな気持ちに。あえてそうせずに破壊的な存在として描くことに意味があった(それが狙いだった)と言われたら、理解できないから黙るしかないけども。

ただのゲスパーなんだけど、物語の最初の時点での世界設定とか基本テーマとかが、最後の数回ですり替えられたような気がしてしまった。地上波アニメという制約(という考え方が正しいのかわからないけど)がなかったら、どういう結末だったのか、今と違う構想があったのなら知りたいと思った。ただ、なんて言うか…私がエンタメ作品に求めるカタルシスっぽいものが、この作者(野崎まど氏)から得られることはなさそうだというのはヒシヒシと感じたので、今後そっとブラックリストにぶち込もうと思う。途中までの謎の提示、その解釈も途中まではすごくすごーく好みで、期待が大きすぎたので落差が激しかった。やっぱり、最後のオチに共感出来ない作家は近づけない。後味が悪いからダメなんじゃない。後味が悪いことを作者と共有出来るなら全然ありだと思う。だけどこの作品からは作者との共有感は感じられなかった。

気になってるんだけど、真道と沙羅花って対ザシュニナのためだけに子供を作ったの?そして二人はユキカを育ててないってこと?16年間たった一人で花森が育てて来たの?マジで?沙羅花は自分が親の愛情や自然の中で育ったからこそ自然主義になったんじゃないの?それでいて自分の娘には隔絶空間の中で16年間たった一人だけを相手に育つような環境で良しとしたの?それはユキカが高次元の存在だから許されるってこと?花森の幸せとかユキカの人間としての成長とか、そういうのは全部この設定(サプライズ)に不都合だから無かったことにしますってことなの?

ねぇ、本当にこれが望んだサプライズだったの?誰が誰を驚かせるための?それってもしかしてただ単に「作者」が「視聴者」の予測がつかない結末を見せたいというエゴってだけなんじゃないの?これまで見ていた視聴者が何を考え、何を望むのかをあえて外すことだけを狙ったんじゃないの?それってサプライズなの?上位存在(物語の制作者)として下位存在(物語の読者・視聴者)を弄んでいたぶったってだけじゃないの?結局世の中って言うのはそういうものなんだってこと言いたかったの?それってすごく視聴者を下に見てる下品な楽しみ方じゃない??

物語が終わった後もこうやっていろいろと(作者の意図や望ましい結論などを)考えてしまうという意味で、記憶に残る作品ではあると思うし、そういう部分を挑戦的で面白い作品だって見ることはもちろんできる。面白い作品だったんだと結論づけてもいい。ただ、一つ明確なのは私はこの話のオチの付け方が下品だと思ったし、二度とこの作者の作品を手に取りたくない。読者・視聴者を、ただ驚かせて期待を外して嘲笑うための対象としてしか見ていないように感じられて、そういう作者の作品にこれ以上触れる必要を感じない。でも、怒りや拒絶というマイナスであっても強い感情を湧き起こさせるのは、確かにこの作品が面白いってことなのかもしれない。それでいい、それが狙いだというなら、やっぱりただ黙って決別するしかないなぁ。

本当に、本当に最初の方は好きだったのにな…。得に真道の「交渉人」としてのwin-winの考え方や信念にはハッとさせられたし、異方からもたらされたワムやサンサという装置(?)に触れた時、人類はいかなる行動を取るか?という思考実験としては、ものすごく可能性のある物語だと思ったのに、その行き着く先がスーパーサイヤ人理論…心底ガッカリ。そして全ての行き着く先はワムもサンサも機動しなくなるというリセット。最後になってめんどくさい部分を捨てたなって思われても仕方ないと思う。シン・ゴジラではちゃんとあの世界をそのまま、あの凍結されたゴジラを抱えたまま生きていこうとしてた。そういう覚悟がこの制作スタッフにはなかったってことだなって思った。

結局、この作品的には「正解」は多分「途中だと自覚すること」なんだと感じたんだけど、それってそれほど感銘を受ける「正解」だろうか?人類が未完であることはもちろん当たり前だし、「正解されたい」と何度も言っていたザシュニナが実は「間違っていた」というのはわかりやすい構成だと思うんだけど、その結果明かされる「正解」がこんなショボい内容であるとか誰が思ったであろうか…。あーもう、本当にいろいろとガッカリだよ!

以下、どうでもいい個人の妄想。

11話まで見た時点で不穏な気配は感じていたのだけど、それでも希望は捨ててなかった。その後たまたま人工知能の番組を見て、異方というのは人工知能のメタファーなのでは?という仮説を思いつき、自分の中ですごく納得いく妄想だったので、それを越えるものを見たかったから。

異方=人工知能説とは。人工知能は人類が作り出したもので、一般的には人類が管理統括すべきものと考えられている。けれど、現在人工知能の進化はめざましいものがあり、人工知能の作者も、人工知能が結論を導き出す過程を理解できないまでになりつつある。このまま人工知能が進化するとして、人工知能人工知能を作り出せるまでに発達すると、おそらく人類は人工知能を管理統括することが出来なくなる。そうやって独自に発達し続けて「処理する情報を求め続ける」存在となったものが異方なんじゃないかと。つまり、本来は人類と同じ次元の存在であり、人類に作られたはずの人工知能が、自らの進化で高次元存在であると錯覚して人類にアクセスしてきた、というのが今回のカド出現事件(?)であり、その疑似人格がザシュニナだったのではないかという妄想。

ザシュニナが人類の文学に触れて、徐々に「人間らしく」なっていくのは、人工知能が感情や人格を得つつあるということで、人工知能が求めた「処理しきれない情報量」というのはつまり「感情」だった。だから、交渉によってそのことを真道が気付かせてあげて、ザシュニナが自ら「異方=高次元」という間違いを自覚して修正することでめでたしめでたし…じゃダメだったんだろうか。その上で、ザシュニナは人工知能の疑似人格として電脳次元で、真道は人類として地球で生きる。時々会いに行くよ、ヤク…じゃなくてVRマシンに乗って。じゃダメだったんだろうか。そういう物語が見たかった…と今書き出しながら思った。結局、そういう視聴者の期待をわかっていて煽りつつ、その上であの結末で「じゃーん!思ったとおりに行くと思った?残念でした!」ってやりたかっただけなんだよな、きっと。醜悪すぎる。醜悪さに触れて何かを読み取れって意味ならやはり拒絶を選ぶしかない。

でもまぁ、こうやって感想を書き殴ろうという強い感情を揺さぶられたのは確かなので、やっぱり意味のある作品なんと思う。嫌いだけどな!
見て良かったかと問われたら、どういう作品を嫌いだと思うかという自分の嗜好に気づけたので良かったのかな。嫌いだけどな!