西郷どん 第31回「龍馬との約束」

久光が!人間的に!成長してる!!(感動!)

一蔵が吉之助の野望(=幕府を見限って長州と手を結ぶ)のために内々に久光の意識改革をしていたというエピソードは良かった。願わくば、以前吉之助の誘いを断った一蔵が倒幕を決意するまでの心の動きを見たかったけど、まぁそういうドラマじゃないんだろうな。回想の中で「斉彬を越える」とおだてられてその気になったという演出をしておいて、その後で「自分は自分だ」とちゃんとコンプレックスを克服した描写が成されていたのも良かった。願わくばそうやって気持ちが変わる心の動きを…(以下略)以前からずっと久光の描写は抜群の安定感なので久光だけが心の支え。

こちらも相変わらず貧乏まっただ中の西郷家、熊吉たちが「なぜこの家は借金が減らないのか」とか笑い話っぽく流してたけど、本当になぜ常に貧乏なのか見ている方にとっても謎なので説明が欲しい。藩からの給金が少なすぎるためなのか、ある程度貰えているけれども(他人に施してしまうなどで)家族が使う分が残っていないという事情なのか。それ一つでも吉之助の人となりを説明する要素になると思うんだけど、そういう部分は曖昧なままで、清貧を良しとするという美談でふんわりまとめられてしまうのがなんとなくモヤモヤする。

龍馬が吉之助と友好を深める回。雨漏りを一緒に直すエピソードでむりやり親睦が深まった理由を説明したつもりなのかもしれないけど、逆に熊吉や吉二郎はなぜ雨漏りを直さないのか、西郷家では当主しか雨漏りを直してはいけないなどのしきたりがあるのかなど、むしろ他の点が気になってしまった。急に雨漏りし始めたならわかるけど、確か前回糸どんが家で雨漏りに困ってる描写あった気がするし。糸どんのは今回の一緒に直すエピソードの伏線だったのだろうか。むしろ謎が増す結果になっている気もする。

吉之助と糸どんは描写としては清い感じのままいくんだろうか。いずれ子供も出来ると思うんだけどそれはどういう描写にするんだろう。愛加那と「真実の愛」とかやってた気がするので、どういうつじつま合わせてくるのかはちょっと(下世話な方向性で)楽しみ。幼なじみとしての信頼感とかそういう感じにするんだろうか。個人的には「こっちも真実の愛」とかやって、二人への愛の板挟みで苦悩する吉之助とか見てみたい気もする。ただ西郷隆盛でやる必要のない物語ではある…でもこれまでの話もそうじゃない?だったら昼ドラ西郷吉之助も良くない…?(悶々)

龍馬がセッティングしてくれた桂との会談と、一蔵からの長州征伐阻止への京への呼び出し。運悪くふたつがバッティングし、吉之助は京行きを決める…というのは史実らしいのだけど、事実を持て余してる感のあるストーリーだったという印象。ドラマの中での「どうしても長州と手を結びたい」というこれまでの吉之助の熱意が強すぎたせいで、いざとなったら手紙で済まそうとする吉之助の対応がめっちゃ違和感あるというか。結局託した相手が裏切るという最悪なエピソードで人を見る目までなかったという残念な結論に…いや、これももしかして史実なのか?そうなのか?

一蔵の京からのヘルプの方も、そのすぐ後に慶喜のセリフだけで「帝は長州征伐をよく議論しろと言っている」と説明されたのみなので、西郷来る必要あったか!?と思ってしまった。こんなことなら、例え盛りすぎだとしても吉之助や一蔵が京でいろいろ動いたおかげで長州征伐は免れたと見える演出にしてあったらもう少し納得できたように思う。

結果的に約束をブッチしたことになる吉之助に対し、龍馬が「見損なった」と言うシーン。物語の流れの中では、吉之助が長州を選んだのはまず「今の幕府はもうダメだから、倒すためには一緒に戦う同士が必要で、状況を考えると長州しかない」というある意味消去法にしか見えなくて、なおかつ今は長州は朝敵扱いされているので上から目線で「組んであげる」と思ってるっぽい雰囲気もあって、そのあたりを相手に察知されたら見損なわれるのは当然だし、自業自得という感想しかない。

そして吉之助を「そういう策略が出来る人物」として描いているなら上記の失敗も一つの試練として面白いかもしれないけど、鈴木亮平さんの演技では吉之助は心底申し訳なさそうに「謝りたか」とか言っていて、あまりに朴訥すぎでは?状況判断能力なさ過ぎでは!?と呆れるばかり。もしかしてこの吉之助の「いい人のフリ」も計算の上で、実は黒西郷爆誕だったら面白いんだけど、これまでの話を見てるとそういう構成は期待できない気もする。なんかこう、こういう痒いところに手が届かないドラマだなぁとしみじみと思う。

来週とうとう薩長同盟らしいので、この状況をどう打開するのかあまり期待せずに見たい。

映画「カメラを止めるな!」ネタバレ感想

話題の映画「カメラを止めるな!」をやっと見ることが出来た。映画館に行くのは1年半ぶり?くらい?この前映画館で見たのは一昨年末に見た「この世界の片隅に」だったかなぁ。ツイッターで話題になってる映画で自分のアンテナにピンとくるものはだいたい面白いという過去の実績があるので、これも多分面白いだろうと思っていたけど、本当に文句なく面白かった!これまでひたすらネタバレ避けて来てよかった!相変わらずいい仕事する私のアンテナ!来週末まで上映してたら(しててくれ…!)もう一回見にいく予定。

ネタバレ厳禁な映画なので、折りたたみ後に感想。

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西郷どん 第30回「怪人 岩倉具視」

ずばり、The・鶴瓶劇場という感じで、もう最初から最後まで「オレの鶴瓶師匠を見ろ~~~!」という演出だったと思う。これで鶴瓶師匠が岩倉具視役でさえなければ、文句なく面白かったと思う。岩倉具視でさえなければ…。

最初配役を知った時、岩倉具視って基本幕末ドラマだと悪役…というか癖が強くて好感度が低い役なことが多いイメージなので、それが鶴瓶師匠というのは結構解釈として面白いし上手い配役だと思ったんだけど、実際に見たらコッテコテの大阪弁を公家役にぶち込むってこういうことか…!と戦慄した。最初「マロは」って喋られても最初何のことかわからなくて、あとで一人称の「麿」と気づいて、その後は鶴瓶師匠がマロって言うたびに「マロwww」とツッコミを入れたくなった。あとあの大阪弁孝明天皇の側近やっていたと言われても「嘘つけwww」とツッコミに全力になってしまってストーリーに集中できなかった。個人的にインパクトありきの配役はここぞという時に使うのは有りだと思ってるし、鶴瓶師匠独特の演技しようとはハナから思ってなさそうな演技も結構好きだけど、公家の中に大阪弁岩倉具視を放り込むという荒業はさすがに…どうなんだろう…これはこれで面白いと言い切れるほど、これまでのこのドラマに対する信頼感が高くなくて…しばらく留保にさせて欲しい…

鶴瓶師匠はとりあえず置いておくと、物語は相変わらずの「さすがの西郷様」ゴリ押しなだけで、特に面白みはなかったかなぁ。一蔵が見放している岩倉具視の能力を先見の明で素早く察知して熱心に口説くのもさすがだし、現状に絶望して諦めかける岩倉具視を「自分も島流しにあったけど諦めたらダメだ」ってありがたい説教してくれるのもさすがだし、たまたま蟄居が解けた岩倉息子を引っ張ってきてまるで西郷の尽力で謹慎が解けたかのようにみせかけるのもさすがだった。いや、ほんと。ここまで徹底されるともう文句言っても仕方ないなって諦めるよ。言うけども。

ひとつ、岩倉邸に薩摩の下級武士がぞろぞろ「教えてください!」って言いに来るシーン。もう既視感がすごくて、これあれだよ!花燃ゆで松陰門弟が「松陰先生!さすが松陰先生だ!」ってわらわら寄ってくるのと完全に一致すぎて草生える。多くの人から慕われているということを伝えるために、実際に大勢の人間に寄ってこさせて「さすが!さすが!」と言わせてしまうこのセンス。すごいわ~真似できないわ~。

あと最後に気になったのが、岩倉息子が孝明天皇の言葉をそのまま「朕が云々~」って復唱してたんだけど、この時代の帝の言葉ってそのまま真似する文化あったんだろうか。帝しか使わない「朕」という言葉を恐れ多くも臣下の分際で真似して「朕が~」って言うか?あのセリフがどうしても使いたければカットインで実際に帝が喋ってる映像を入れたら良かったのでは?というどうでもいい部分で引っかかった。

来週からは公家世界の中で岩倉の大阪弁ブイブイ火を噴くかと思うとめっちゃ楽しみ。そういえば岩倉邸で吉之助と一蔵が一緒に網にかかってて、こういうの多分腐的盛り上がりを見越して入れてるんだろうなって感じてしまって寒かった…そういう制作者側の狙いが透けて見えるのは正直ちょっと手抜きに感じる。別に視聴者に媚びなくていいよ…

西郷どん 第29回「三度目の結婚」

今回は西郷の男泣き(ただし嘘泣き)にころっと騙される久光の顔芸が見られただけで、全てのダメ要素が消し飛ぶ面白さだった。青木崇高さんの久光可愛すぎる~。三度見するとことか、多少演技過剰気味にも見えそうなギリギリのところで、あざと可愛さに落とし込むバランスが絶妙だった。これまでの久光というキャラが劇場型だったからこそ、この演技がすんなりと受け入れられるんだよなぁ。そこは役者の青木さんの作戦勝ちという気がする。脚本家が心から楽しんで久光を書いてるんだろうなって伝わってくるし、青木さんがそれを120%しっかり受け止めて演じてると感じる。この面白さはこの作品があってこそだと思うので、やっぱり全ての作品に意味はあるんだろうな…。いくらそれ以外がダメのオンパレードだったとしても、久光がいるだけでこの作品に意味はあるよ!(己に言い聞かせる)

オンパレードの方。久光が「参勤交代やめさせたのに!」ってギリギリしてたけど、見てる側には全く心当たりなし。後出しナレーションで説明とか良く恥ずかしげもなく出来るよなって別の意味で感心する。久光がやったことできちんと描写されたのは、春嶽と慶喜を幕政に復帰させたのに慶喜にイモイモ言われたってことと、酒の席で散々コケにされてブチ切れて薩摩に帰ってきたことだけだったような。あの時もチラッと書いたけど、久光がやるべきことはきちんとやってたというのをあの時点で(ナレーションででも)ちゃんと説明されていれば、ここまで後出しのかっこ悪さは感じなかったと思う。作劇上、久光の有能さを描写したくなかったのかなぁ…久光の可愛さは優秀さともちゃんと併存出来ると思うんだけどな。

久光を懐柔するために西郷が嘘泣きする、という展開自体は良かったと思うんだけど(鈴木亮平さんの演技、本当に素晴らしいといつもため息出る)、可能ならそうやって西郷が態度を変えざるを得なかった理由を納得いく過程込みで描いて欲しかった。今の流れだと「あんなに盛り立ててあげたのに、慶喜は結局薩摩のためにならない方向に進むことがわかった。だから慶喜は切り捨てて、今度は倒幕路線に転換する」って理屈に見えて、まぁそれはそれで一応(そういう考え方もあるよね的に)筋道は通っているんだけど、そもそも「あんなに盛り立ててあげた」の部分は常に慶喜の意向を無視して薩摩側が勝手に盛り上がってただけに見えたし、慶喜が薩摩の意向を尊重した幕政を行ってくれると判断した根拠も全く読み取れなかったし、いざ慶喜が使えないとなったら急に倒幕に意見を転身するその極端さに視野の狭さと自己陶酔の気持ち悪さしか感じないし、正直「こういう人間に自分の上司になって欲しくないわ…」という感想しか抱けん。一蔵がドン引きするのにめっちゃ共感するわ…。

そもそも「民のため、誰もが腹一杯食べられる国のため」に幕府を倒すというのが意味不明。戦争したら民はもっと困窮するんじゃないのか。倒したあとは勝てば官軍だから、戦争の間は黙って耐えろってことなのか。それも、久光を始め薩摩自体はまだ和平路線で行こうとしてる状況で、自分だけの思い込みで倒幕に突き進むことに何の疑問も抱かないのか。倒幕の心を決めるのは百歩譲っていいとして、倒幕の方法をどう考えているのか、武力か政治工作か、武力だとして勝算をどの程度で考えているのか、政治工作だとしたらどのルートなのか、そういう展望もなにも見せられないまま「自分にはいろいろ見えているんだ」的な匂わせだけされると「あ~はいはい、史実からの逆引きでの先見の明がありました描写乙」としか思えん。あと、この描き方だと西郷がめちゃめちゃ自己陶酔型で他人の意見に耳を貸さない人間に見えてしまってるんだがそれでいいのか。もっと上手い描き方いっぱいあるのに、どうしてこう西郷sageにも見えかねない方向で持ち上げようとするのか。こういうのもただの好みの問題なんだろうか。

糸どんとの結婚話。次男のお嫁さんは身重だし自分もいつまでも実家の世話出来ないから早く嫁をもらってくれとせっつく妹、かなり見ててしんどかった。この時代としては正しい価値観なんだろうけど、須賀どんが嫁に来たときも「母親が先が短そうなので労働力として」だったよな~。そんなに繰り返すほど何か重大なテーマなんだろうか。どちらかというと結婚話に持っていくための強引な理論にも見えてしまうんだが。あと笑い話のように「最初の妻に捨てられた」ようなこと言ってるけど、江戸行きのお金の工面&夫の夢の負担にならないために身をひいた須賀どんつかまえて、どうしてそういう無神経な扱いしちゃうわけ?最悪まわりがそう思っていたとしても、ここは吉之助だけはそのことを理解&感謝している描写を入れて欲しかったわ…酷い…なんて酷い男なんだ…控えめに言ってクズ。

愛加那と子供に心を残しつつ、糸どんに結婚を申込みに行く展開も良く理解出来なかった。愛加那と愛し合ってることにしてしまったので、ここでまた糸どんにラブだと浮気っぽくなるからかもしれないけど、「惚れてないけど家のため&自分の唯一の理解者として」結婚して欲しいって良く言えるな?どんだけ面の皮が厚いんだよ?惚れてないけどってわざわざ口にする必要あったのかよ…正直ならいいってわけじゃないだろ…。意味わからん。ここからどういう西郷像を受け取ればいいんだ。糸どんについても、黒木華さんの「ずっと吉之助に心を寄せている」演技自体は本当に見事で見応えあるんだけど、ストーリーの文脈的に見るとそんな何十年も吉之助のことが好きってちょっとセンチメンタルすぎる気もするし、この吉之助相手だと恋が実って良かったね!って素直に思えないのがしんどい。

といろいろと思うところはあれど、久光の「え、お前泣いてるの!?!?」ってシーンだけで全部チャラにした。最高だ!!

スーパープレミアム 「悪魔が来りて笛を吹く」

一昨年の「獄門島」に続く金田一リブートシリーズ(っていうのか?)。第二弾は金田一耕助吉岡秀隆さんを配役しての「悪魔が来りて笛を吹く」。NHKなのでCMもなく、120分どっぷりと横溝世界に浸らせてもらった。70分くらいで早々に謎解きが始まったので「早くね!?」って思ったら、その後延々ともう本当にみっちりとねっとりと上流階級世界の非常識さ&傲慢さを見せつけてくれて、本当に悪趣味すぎてスタンディングオベーションするしかない。最高の横溝ワールドだった。

犯人が自分の出自を知らないまま復讐していたという改変については、思い切ったことしてきたなぁという印象。個人的に、この作品の犯人については、己を悪魔と自覚している絶望感の中での悲哀を伴うゴシックロマン的な雰囲気が味だと思っていて、悪魔の正体を知らないままだとその良さが大幅に損なわれてしまうので、あまり好きではない部類の改変…と感じてもおかしくなかったんだけど、結果的にはこの改変が物語のアクセントになっていて、すごく良かったと思う。物語全体のつじつまや雰囲気よりも、金田一耕助というキャラを際立たせるための改変だった…気がする。そしてそれは大成功してたと思う。すごかった。仰け反った。

誰もが謎解きが宙ぶらりんで居心地の悪い状態の中で、金田一耕助だけが全てを把握した上で「本当に知りたいですか?(チラッチラッ」と一見相手に配慮しているかのように見せかけつつ、実際には自分が真実を語るための免罪符にしてしまっている点とかが、最高に金田一の無邪気な邪悪さが出てて良かった。その無邪気な邪悪さを吉岡秀隆さんの穏やかで優しい口調でやるところが、最高にロックでクレイジーで良かった。吉岡秀隆さんの絞り出すような悲しそうな口調で語られる「あなたが悪魔なんです」の救いの無さよ…!!

「獄門島」でのハセヒロさんのぶっ飛んだ狂気をはらんだ金田一が本当にロックでクレイジーで最高だったので、今回配役が変わると知ったときには(吉岡さんの金田一はそれはそれでめっちゃ楽しみだけど)ハセヒロさんのあの狂気な金田一のままのその後を見たかった…という気持ちが強かったんだけど、いざ見終わってみると「これもまたあの金田一の狂気の延長だわ…そしてこの吉岡さんの口調でやるからこそのエグさがたまらないわ…」という感想になり、配役の変更はまさしくそのために行われたのだと思えたのが何よりも素晴らしかった。演出家の吉田さんのインタビューでは、金田一吉岡秀隆さんにやってもらえることが決まってから結末をわざわざ変更したと書いてあって、さもありなん…アテ書きの威力恐るべし…って平伏する。

次の八つ墓村はまた役者さんを変えてくるのだろうか。八つ墓村といえば金田一が人がいいだけで超存在感のない作品というイメージなんだけど、無邪気な邪悪さを隠し持った吉岡さん続投もいいかもなぁと思いつつ、また全然違う役者さんで新しい金田一耕助の魅力を引き出して欲しい気もするので、全てを制作陣にお任せして安心して正座して待機。出来れば1年に1作くらいのペースで見られると嬉しい。NHKに要望出さねば。

今作は秋子夫人の筒井真理子さんが裏主役ではなかろうか。最後のあの「する?」をどれだけ淫靡で退廃的で救いのない感じに言えるかどうかが、この物語の成功の鍵だったと思うのだけど、結果的に大勝利だったわけで、配役と演技が絶妙だったとしか言いようがない。めった刺しと血塗れの構図は映画的だったなぁ。あとあの音楽がね…あの場面で流れる「Mother」がね…救いの無さを増幅させるよね…ホントにさぁ~~~!最高!!

正直、ミステリとして見ると今回結構粗が多いというか端折りすぎてるというか、天銀堂事件がほぼ導入だけだったり飯尾の存在が空気過ぎたり、それぞれの事件の動機や方法が駆け足でしか謎解きされなかったり、いろいろと気になる部分が多いんだけど、これはもうミステリじゃないんだよ!聖典ともいえる原作と、その後の多くの映像化作品全てに対する「自分たちの新しい解釈の金田一耕助をくらえ!」っていう挑戦状なんだよ!それは原作のミステリとしての面白さからあえて離れて、いわゆる「横溝ワールド」として総括されるおどろおどろしさやその中にある妖しい艶めかしさを再現すること、そしてその中で息づく金田一耕助という地味な(あえて地味なと言おう)探偵を再解釈することっていう着眼点に絞って作り上げた二次創作なんだよ!!って力説したい。誰にも頼まれてないし、自分だけの勝手な解釈だけど。原作をリスペクトして、なるべく忠実に映像化することの大事さは良くわかってるけど、それでもやはりこうやって新しい解釈を模索するチャレンジ精神にはやはり心打たれる。あ~、できる限り長くこのシリーズが同じスタッフで続いていきますように…!

西郷どん 第28回「勝と龍馬」

焼け野原となった京を絶望した目で見渡す吉之助が、生き残った犬を助けるシーン。西郷の犬好きのエピソードに絡めてあるのだろうし、実際に犬がじゃれる姿はかわいくてほっこりしたし、今後この犬が西郷に付き従うのかと思うと楽しみでもあるんだけど、親を探す子供や怪我人が画面に映った後なので、犬だけじゃなくて人も助けるべきなのでは…?という気持ちになってしまった面もある。誰もいない廃墟だったら気にならなかったと思うんだけど…。でも本当にこの犬かわいかったのでにゃんけい和尚並みのレギュラーメンバー化希望。

勝海舟と龍馬と吉之助の出会い。この時勝海舟は幕府の海軍奉行?だったと思うんだけど、この段階から幕府に愛想尽かして「見限るこった」とか言っちゃうと今後の勝海舟の言動が意味不明になりそうじゃない?と思ったけど、良く考えたら別に勝海舟がどういう思想でどういう政治を目指しているかなんてこの大河で語られるわけがないので、言動の意味不明さなんて問題にならないことに気付いた。多分、吉之助の気付きや決断のきっかけとして、都合良く所々でもっともらしいことを言ったりする役割になる未来が見える。わかる。わかるよ。最後まで結局誰だかわからなかったけど、吉之助に「革命」の言葉を吹き込んだ沖伊良部島の謎の老人枠ってことでしょ。あと、勝が「見限るこった」と言った時、斬新にも2回繰り返しの演出になってたけど、大事なことなので2度言いました状態になってたけど、アレは笑いを狙ったってことでいいんだろか。あそこで笑いを取る必要性がさっぱりわからん。

誰も彼もが吉之助に会うと「薩摩の西郷どん」として持て囃してくるのもいい加減慣れてきたというか指摘するのも飽きてきたというか。ただ、やっぱり制作側に「はーい、みなさーん!西郷は誰もが敬愛する人物だったことにしまーす!そう決まってるんでその設定でお願いしまーす!」って押しつけられてる感ばかりが募る。私はその設定の根拠となる創作が見たいんじゃ!(もうスッパリ諦めたけど!)

吉之助と慶喜の決定的な決裂。映像的な見栄え重視、ドラマ性重視であることは全然悪いことではないと理解しつつ、さすがに将軍後継役に単独会見を挑んだ上で足元に刃物突き立てるのはいろいろと盛りすぎでは…?遠山の金さんならばともかく…と思い、ふとこれは遠山の金さん的な大河なんだったと思い出す。そうだった、そうだった。ツッコミはむしろネタ的に楽しむためにあるんだった。ただ、遠山の金さんだと思えば脚本のノリは結構納得できるのだけど、そうすると逆に役者の演技が迫真過ぎてアンバランスなような気はする。役者は重厚な大河をイメージして演技してる気がするんだよなぁ。そうなるとこのバランスの悪さは演出の問題なのかもしれない。鈴木亮平さんと松田翔太さんの芝居そのものは面白いので、多分歌舞伎の演目みたいなイメージで、場面の繋がりとか意識せず、登場人物以外の存在や背景などをまるきり無視して、そのシーンの役者の全力の演技を楽しむドラマというのが一番正しい見方なんだろうな。それを一年間、50回近く連続でやる意味は特に見当たらないけど。

今回ようやく(?)吉之助は慶喜を見限るわけだけど、そもそもこれまで吉之助(というか斉彬)が慶喜を一生懸命盛り立ててきた理由も全然わかってないので、「お、史実に帳尻合わせてきたね?」という感想しかない。その上、龍馬が取り持つ前に「薩摩は長州と組む!」って宣言してたけど、吉之助にそんなこと決める権限あるのだろうか。そして龍馬の功績を全部横取りすることになりそうだけどいいんだろうか。まぁ、いいんだろうな。これまでも慶喜を(キャラとして魅力的だとは思うけども)将軍に相応しい人物だと思ったことはなかったので、むしろこれまでの斉彬がなぜ慶喜にあそこまで肩入れしていたのかという疑問(&人を見る目がないのでは?という疑念)だけが残った結果となった。

そういえば、思わせぶりなふきどんへの「おなごの出る幕じゃない」にはどんな裏があったんだろ…真面目に見てないからかもしれないけど、意図が全然読み取れなかった。ふきどんに重荷を背負わせないため?長州征伐の結果で自分が慶喜の気持ちを変えられると思っていたから?わからない…。今後この伏線(なのかどうかもわからんが)が回収されるときは来るのか。あと大久保と久光はこの瞬間どこで何をしているのかサッパリわからないんだけど、それもこれも「登場していない人物はそもそも存在しない」と考えれば別におかしくはない。

予告を見る限り、来週は3回目の結婚話だそうで。幕末のこの流れに突然ホームドラマぶち込まれることに違和感あるけど、多分来週1回だけ見たら全然違和感のない作りになっているんだろうなっていう予感がする。それはそれでちょっと楽しみ。

西郷どん 第27回「禁門の変」

そういえば桂小五郎玉山鉄二さんなんだった! 出てきた時思わず「山川!?会津山川大蔵がどうしてここに!?」と思ってしまったので、八重の桜罪深い。

個人的に幕末の動乱ってそれぞれがそれぞれの正義のために戦ったから起こったことだと思ってるし、その根本には朝廷内での各武家勢力をバックとした貴族による権力争いがあって、それに孝明天皇という方針がコロコロ変わる(ように見えてしまう)トップがいたことで混乱が加速したという認識なので、こうやって「西郷は長州に対して理解があったのに、慶喜(と会津)によって仕方なく動乱が起きた」みたいに描かれるとドッチラケな気持ちになる。わかりやすさってさぁ…そういうことじゃ無いと(私は)思うんだよ…いや、こういうわかりやすさが必要な人に向けての大河ドラマなのかもしれないけどさぁ…。

別に西郷が長州に対して理解があった、戦不支持だったという設定自体は全然ありだと思うし、それはそれで構わないんだけど、何度も書いてるけど「なぜ西郷がそう考えるに至ったのか」というのが全然見えないからモヤる。結局未来の薩長同盟から逆引きした制作側のご都合設定なんでしょ?って思ってしまう。役者の演技のおかげで桂が信頼に足る人物だということはちゃんと伝わってくるけど、桂は長州そのものではないし、長州だって一枚岩じゃないし、実際には薩摩だって西郷の一存で何もどうにもならない状況なわけで、それなのに安直に「桂がいい人=長州と戦うべきではない」と西郷に判断させるというところに制作側の怠慢を感じる。会津が悪者でもいいけど、だったらせめて西郷側の正義くらい納得いく形で描いてくれよ…。桂という個人を信頼出来るというなら、会津にだって信頼出来る個人はいると思うよ?山川大蔵って人がいてね…桂によく似た、義侠心あるアツい男だよ…。

蛤御門の変はすっごい解釈で描いてきたな、という印象。最後まで戦いたくなかった西郷は敵将のみ倒して兵士に武器を捨てるよう呼びかけ、長州兵がそれに応じかけたところで横から出てきた会津が長州を虐殺したように見えたんだけど、そういう風に作ってあったよな?オマケに京に火を放ったのが会津っぽく説明されてなかった?酷くね?ちょっとこれ酷くね??当時の京ではそういう受け止め方をされたという描写かもしれないけど(幕府の評判が悪く、長州には同情票が集まったらしいし)、であればせめて事実を一言でも誰かに触れさせるとか、そういうバランス感覚が重要じゃない?確かにそれぞれの正義があっていいし、それを正当化する創作エピソードもあっていいと思うけど、そのために他者を貶めるのはダメじゃね?歴史は特にそれやっちゃダメじゃね??初心者に向けてわかりやすさをうたう(つまりあまり歴史に詳しくない視聴者に向けてる)テレビドラマで、一方的に片方を悪者と解釈できてしまうエピソードをぶち込んでくるその姿勢にドン引きする。わかりやすさとは一体…。

あまり過去作と比べるの良くないと思うけど、八重の桜で見た薩摩とか長州って会津にとっては鬱陶しい存在なんだなっていうのは十分共感出来たけど、薩摩や長州そのものをそこまで悪く書いていなかったと思うんだよな。吉川晃司さんの西郷は今でも私の中でダントツでカッコよくて誠実な印象だし。長州の久坂玄瑞須賀貴匡さんは超イケメンで好感度高いし。真木和泉嶋田久作さんの祝詞のシーンとか凜としてて今でも思い出してため息出るし。戊辰戦争での薩長軍の行いなんて、清廉潔白過ぎて逆に配慮を感じて白々しいくらい(ただし世良修蔵を除く)だったのにな~。それに慶喜の裏表っぷり&小心者っぷりは会津から見たら腹立たしいエピソードばかりだったのに、私のとっての慶喜小泉孝太郎さんって「憎めない愛すべきキャラ」として定着してる。それでも最終的には「会津ぅ;;;;;;」って思わされたんだから、力がある人が書けば出来ないはずないのに、面倒くさくて投げたのか、視聴者がバカだと思ってるのか…こういうところで脚本家への信頼が下がる。

あと、慶喜暗殺未遂事件の犯人は水戸藩士ってことが判明してたけど、これって史実なんだろか?攘夷派の水戸家にとって開国派の慶喜を諸悪の根源と考える一派がいることは全くおかしくないしあり得るなぁ。ただ、以前斉昭が慶喜を将軍にって推してた時に自分は散々「将軍なんかやりたくない」って駄々こねてて、その頃から別に水戸の方針に従う気とか無さそうだった慶喜が、いきなり「身内の水戸から…」みたいに絶望してるの見ると、いやいやお前こそ身内の意向無視して好き放題やってましたよね?的な気持ちにならなくもない。とりあえずこの平岡某って人の事件は全然知らなかったので面白かった。一点だけ残念だったのは、慶喜が水戸家が犯人だったことに気付いて「誰が敵で誰が味方か」って壊れていく(?)展開、先週既にこのセリフを出してしまっているので「またかよ」って思えてしまったこと。先週はふさぎ込む慶喜描写だけにして、敵味方がわからないという煩悶は今週一気にやった方が場面として映えたと思う。そして松田翔太慶喜はそのままゴッシーに見えて笑った。

多分、西郷どんは水戸黄門的な時代劇枠として見るために作られているんだろうなぁとは思う。幕末大河として、年代別に大きな事件がいくつもあって、それぞれに(歌舞伎とか読み本とかでの)舞台映えする逸話があって、それを「前後のストーリーをつぎはぎして、見栄えがする部分だけ型として派手に見せる」というコンセプトで作っているんじゃないかなと思う。それが面白いという人もいるのだろうし、そういう大河ドラマもあっていい…と己に言い聞かせながら見続けるのバカバカしくなってきた。そろそろ脱落してもいいかもしれん。