西郷どん 第24回「地の果てにて」

久光の京での朝廷工作(というか結果的にはただの薩摩内の同士討ちなんだけど…)のおかげで、久光は朝廷の覚えもめでたく、その勢いで江戸へ進出(?)し、その久光の幕政改革でもって松平春嶽一橋慶喜の幕政復帰が叶う。でも復帰にありがたがることもなく、久光を思いっきりイモ扱いして頭からバカにしてるひー様に苦笑。確かにこれまでもそういうキャラとして描かれてたわな。そして慶喜に罵倒されて滑稽なまでに悔しがる久光もまたダメっぷりが突き抜けていて良かった。唯一ガッカリだったのが慶喜のキャラに合わない西郷ヨイショのセリフ。「俺と腹を割って話がしたいなら西郷を連れてこい」とか(まぁ慶喜は相手が一番嫌がりそうなことを察知して口にする能力ありそうなのでそういう意味では)言いそうではあるけど、こんなにあからさまにわかりやすく西郷上げを入れられるとシラける…。

一方、その頃西郷は流された先の島の徳之島で、押しかけ女房の愛加那とラブラブ楽しい日々を過ごしていましたとさ。先週の寺田屋での悲劇をまっっったく引きずらない作劇に逆に感心する。悲惨な出来事があったら常に眉間にしわ寄せてるべしって思ってるわけではもちろんないけど、ドラマは構成から全て計算して作れるわけで、せめて吉之助が寺田屋騒動でどのような傷を受けたのか、そこから何を学びどのように乗りこえたのかを見せることで、悲劇を「消化」出来ると思うんだけど、今のままだと「郷中仲間同士で斬り合いになってしまってやりきれない、仲間同士で殺し合うなんてあまりにツラい」という当たり前のことを当たり前に嘆いて、結局それだけだったようにしか見えなくて物足りない。

久光がひー様にコケにされた腹いせに(?)沖永良部島へと更なる島流しとなった吉之助。海辺の隔離牢屋がどれだけ史実に基づいているのか知らないけど、牢屋と言うより見世物小屋っぽい感じがしたので、そういう性質の罰だったのかもしれない。ここでは食事も粗末で命の危険にさらされるわけだけど、むしろこれまで奄美大島では現地妻まで娶って超リア充、徳之島でも妻を呼び寄せて家族団らんと、あまり罪人扱いされていない印象が強い後での沖永良部島での仕打ちは結構エグい。そしてエグい状況になった途端、吉之助は走れメロスセリヌンティウスばりに「友(=一蔵)が薩摩に戻してくれることを信じる…!」と友情に目覚めるのであった…。見方が捻くれている自覚はあるけど、この部分それにしたってもうちょっと描き方があっただろって思ってしまう。これまで一蔵から吉之助に対しては執着している描写が多い割に、吉之助はそれほど一蔵に対して思い入れがないように見えていたので、辛い状況になったからっていきなり「信じる」と力強く言われても…都合のいいときばっかり(精神的に)頼るんだね…みたいな気持ちに。一蔵目線から見れば、ようやく一途な気持ちが通じた瞬間なのだろうか。

ダメ押しのように薩摩の仲間達も島の謎の老人(誰?)も「一蔵は吉之助を見捨てたのだ」といきなり二人の仲を裂くようなことを言い出す。なんだこの超展開。これまでも一蔵の真意が他の仲間に伝わらないシーンは何度もあって、一蔵自身もそのことに苦悩する姿も描かれていたので、多分一蔵は去年で言う但馬的な不憫枠なんだと思うけど、であるならばせめて一蔵が目指す未来をもう少し見せてくれてもいいような。吉之助と久光の仲が悪い状態で、一蔵がどういう未来を見ているのかわからないので、応援しようがないというか。この不穏な展開は、未来の二人を暗示した仲違いの種なのか、それとも未来と対比させるための真の友情表現なのかわからない。一蔵の真意を読み取れない=吉之助の一蔵を信じるという言葉の根拠が全くわからない=言葉が上辺だけに聞こえるという悪循環。なんだかなぁ。

意地を張ってるようにしか見えないハンスト(というか藩命以外の食事自粛?)で勝手に衰弱していく吉之助。極限まで弱ったところで突然現われる謎の老人。「そこまでなりつつ友を信じるのか…」と勝手に心打たれ、牢を破って死にかけの吉之助に口移しで水だけ飲ませて後は放置。結局意識のない吉之助を介抱してくれたのは薩摩渡航経験のある島民の…土持さん?であったと。この突然の口移しには(話題作り以外の)何の意味があったのか…。なんかもう、何もかもどうでもいいかなって。

この大河は「誰からも愛されまくる西郷を描く」とかだったと思うけど、見ていてなんとなく思ったのは、実際にあらゆる人物から愛されて矢印向けられまくっている場面をいくら見せられてもちっとも「愛され西郷」を受け入れることは出来ず、かえって理由もわからないのにやたら持ち上げられる不可思議さが制作者の押しつけに感じられて、愛され(ているはずの)西郷に反発を覚えてしまいかねないんだな、ということ。愛されている主人公を描くなら、視聴者自身が主人公を愛せるエピソードを重ねてもらいたかったなぁ。

西郷どん 第23回「寺田屋騒動」

北村有起哉回。これまで役者が北村有起哉というだけで識別していた薩摩藩士の名前が、ようやく大山格之助という人物だと把握する。いや、これまでも一応大山某と言うらしいというのはぼんやりわかっていたけども。有馬さぁや村田新八と合わせてここ数回でようやく郷中仲間それぞれの特徴が出てきて、見分けが出来るようになった感じ。有馬さぁがただの粗暴な藩士じゃないってことがちゃんとわかって良かった良かった…。でもこれ、どうして最初の頃にやらなかったんだろう?ここ数回でキャラを立ててきてるので、脚本家の実力的に出来なかったわけじゃないと思うんだけどなぁ。あえてこういう構成を狙っているのか、元々こういう作風なのか。直近の数回で話をこまめに完結させるというのも連ドラの技法として優れていると思うんだけど、それをあえて大河でやらなくても…他では絶対できないせっかくの一年間の大枠なのに…と思ってしまうな~。まぁ、これも大河の多様性の一つだと納得するしかないのかな。

先週命がけで吉之助が止めた藩士の暴発だけど、今週は寺田屋でやはり暴発してしまうわけで、そこをどうやって説明するのかと思っていたけど、危惧していたほど唐突な流れではなかった。無位無冠の久光が天皇から詔を賜ったことで肥大化した国父としてのプライドと、その久光をどうしても受け入れられない藩士たちの不満が、どうしようもなくすれ違ってしまった結果という説明は納得しやすかった。天主様の言葉に舞い上がっちゃう久光と、それを上手く舵取りしようとする家臣のバランスが見ていて面白い。ホント、久光の屈折したキャラが味わい深い。

久光と言えば、吉之助に関する報告を受けて「切腹」って言い放ったの最高だった。多分物語の中では偉大なる兄へのコンプレックスから自己肯定感を拗らせている暗愚な国父様なんだと思うけど、それにしては久光はチャーミング過ぎる。脚本家も絶対青木さんの久光の魅力がわかって書いてるっぽい気がする。脚本だけ読んだら暗愚な国父に見えてしまうけど、実際に青木さんの演技を加えるとそのダメさが魅力になる感じがわかってると言うか…実際に演技で応える青木崇高さんが素晴らしいのはもちろんだけど、あまり好きではないこの脚本も、久光の描き方という一点だけはめちゃめちゃ評価してる。ブラボー。

惜しむらくは大久保の描き方なんだよなぁ。根本となる「西郷どんラブ」に共感できないのが致命的だけど、それ以外でも、吉之助を慕いつつも久光の重臣として藩政に参加するその内面をもうちょっと掘り下げてくれてもいいのになぁと思う。今の描かれ方だと吉之助のためだけに仕方なく久光に従っているように(私には)見えてしまうんだけど、実際には大久保自らの野望や理想があったはずだし、そのためにあえて久光のやり方を受け入れる程度の強さがもう少し強調されてもいいと思うんだけどなぁ。

小松帯刀が今回初めてちゃんとしたセリフをしゃべった!篤姫での瑛太小松帯刀が印象深いので、画面にイケメン小松帯刀@町田啓太と一蔵@瑛太が一緒に映ってると混乱する。今回斉彬が昔「西郷は物差しだ」と言ったと久光を丸めこんでて、私は素直に(?)これは小松帯刀のハッタリだと受け取ったんだけど(もう一人の重臣や大久保も慌てて口裏を合わせたのかと思ってた)ツイッター見てたらあれはハッタリじゃなくて味噌汁案件(※)だったのか?と心配になる。

※味噌汁案件:軍師官兵衛の「幻の味噌汁」として話題になった案件。

今回だけでムリヤリねじ込まれた感のある郷中仲間の結束描写ではあったけど、腹が減ってウナギを捕った幼なじみ達が、立場が違ってしまい仲間同士で斬り合う結果となってしまう悲劇性は、役者の熱演もあって迫力あったと思う。特に有馬さぁの血を拭った懐紙を一蔵の懐にねじ込む大山の鬼気迫る表情が良かった。

西郷どん 第22回「偉大な兄 地ごろな弟」

吉之助と久光の対立が本格的に始まる展開。これまでも久光ってわずかな登場場面だけでも兄に対する敬愛とコンプレックスを拗らせてるキャラとしてバッチリ個性出ていたけど、今回からはメインで吉之助の対立相手として出張るみたいでとても嬉しい。初登場時から青木崇高さんの久光はめっちゃ魅力的だったけど、ここ最近の「大久保に持ち上げられて調子に乗ってる感」が本当に人間くさくてかわいくて、愛さずにいられない。キンキラキンの衣装で心持ち鼻高々な青木崇高さん、チャーミングだったなぁ。

佐野史郎さんの井伊直弼もそうだったけど、主人公である吉之助と対立する相手の方が魅力的なせいで、彼らを頭ごなしに否定する吉之助の言動を正当なものとして好意的に受け止めるのが難しい。せめてもっと相手の悪役っぷりを引き立てるようなやり取りにすれば、もっと吉之助自身の魅力も増すと思うんだけどなぁ。もう既に脚本に対して不信感しかないので、脚本が登場人物を通して「吉之助さぁはすごい」「やっぱり西郷がいないと」「薩摩と言えば西郷」とか言うたびに「なんでだよ」「どこがだよ」っていちいち気持ち的に反発してしまい、必要以上に吉之助を低く見ちゃってるのかもしれない…でも、仕方ないよなぁ…そう感じちゃうんだもん…

なんだか「西郷はすごい人で、みんなに愛されてるんです!そういう設定のお話なんです!」って押し切られている気がしてしまう。でも、本来その愛される部分をじっくり視聴者が納得して共感するためにドラマがあるのでは…?そのための物語と訳者の演技なのでは…?その設定を押しつけた上で、このドラマは何を描きたいんだ…?ただ西郷隆盛の人生をなぞるだけの大河ドラマなら、そんなの全然見ててつまんない…いやいや、そういう大河ドラマを望んでいる人だってきっといるんだ。そういう人に向けての大河ドラマなんだ。と己を戒める。ここ最近そんなことばかりしてる。

時代劇にそぐわぬロックなBGM(この演出かなり好き)に乗せて、西郷家の地ごろな弟、信吾登場。これまで西郷家の年頃の弟って渡部豪太さんの吉二郎しか認識してなかったので、いきなり出てきた三男坊に困惑する。あなた誰?せめて名前だけでももう少し前から出しておいてくれたら「あの三男ね!」って思えたかもしれないのに。それとも出ていたのか。錦戸亮さんが渡部豪太さんの弟というのはしっくりくるのだけど、今回吉二郎出てこなかった…グレ気味な信吾を優先しなければならない事情はもちろん良くわかるんだけど、一方で健気に傘張り(?)して家を支えてた吉二郎のことをもっと労ってあげて欲しい…それは来週のエピソードなのかもしれないけども!

有馬さぁの暴発を命がけで止める吉之助の姿を直接見て信吾が心を開くという展開そのものは熱いのだけど、肝心の有馬さぁに対する吉之助の言葉がいまいち上っ面な気がして胸に響かなかったので、なんだか誤魔化されたような気持ちになる。そして今回は納得してくれたけど、結局来週寺田屋で有馬さぁはやっぱり暴発するんだよね?今週の吉之助の説得の意味とは一体…その場しのぎの時間稼ぎという意味があったのか…

あと大久保一蔵が不憫すぎて泣いた。一蔵が「月照さんを斬って許してもらえ」って言ったあたりから、二人の意識のズレが焦点なのかなぁとは思ったのだけど、いくらなんでもここまで一途に吉之助のために行動してきた一蔵に対して、散々気を使ってやっと帰還を許してもらった上司(=久光)に真っ正面からダメ出しするの酷すぎるだろ…面目丸つぶれだろ…さらに吉之助がそれを全然悪いと思ってないのも残酷…自分は担ぎ出された側だから何をしてもいいと思ってるのかよ…酷い…酷すぎる…

「誰からも愛される吉之助」がテーマ(?)らしいけど、愛されてるところが既定路線で始まられると、「お、おう…」という気になる。出来れば愛されている理由を、ドラマを通じてしりたかったな…。

西郷どん 第21回「別れの唄」

正助改め一蔵が吉之助を迎えに来て、島に骨を埋める覚悟だった吉之助が帰還を決める。サブタイ通り愛加那の唄がもの悲しくも力強いのが印象的な回だった。

島編、映像は美しいしストーリーはドラマチックだし、結果として面白かったんだけど、島に来る前と後で吉之助にどういう(政治的な)変化があったのかさっぱりわからないままなの悲しいな。美しく明るく強い現地妻を持ってめでたしめでたし、意外の変化が見えなかった。せっかくの黒糖地獄という題材も、吉之助の意識を根本的に変える結果には至らず、砂糖を絞る機械の歯車が鉄になったという改善のみ成されて、むしろ「もっと搾り取れ」と言わんばかりの結末になってないかこれ。悪代官・田中の劇的な改心とかもなかったし、本当に吉之助のリア充島滞在記になってるじゃん…あ、もしかしてそれが狙いか…

わざわざ島まで迎えに来る一蔵の健気さに涙が出る。こんなにつれない態度しか取らない相手に、良くここまで尽くすよね、一蔵どん…。一蔵がここまで吉之助に執着する理由がすんなり納得できれば一番理想的なんだけどなぁ。

本心では斉彬の遺志に未練があるくせに、家族のことを考えて「これからずっと島で暮らす」と宣言し、その家族に自ら身をひかせて吉之助を本来の道へ戻す、という展開は、江戸へ行きたいけど支度金が無いとてんやわんやだったときと全く同じ構図なんだよな~。あの時も周りが「江戸へ行け!金は作る!」と言ってくれて、本人は特に何もしてなかったなそういえば。妻(須賀どん)が身をひいて夫を旅立たせる構図まで一緒。これは意図してるのかなぁ…そう、なんだろうなぁ…それって吉之助の魅力に繋がるのかなぁ…繋がってないよなぁ…

みんなに愛される吉之助さぁだから、みんなが彼のために尽力する、というのは文脈としてはそれでいいんだけど、それを見せるためにはまず視聴者にも同じように吉之助さぁを愛してもらう必要があるわけで、視聴者が「この吉之助さぁのためならそりゃー自分を犠牲にするよ!」って思って初めてその先に進めると思うんだけど、このドラマを見ていると吉之助が愛されている理由はいまいちピンとこない気がする…愛されていることが既に既定路線になっているので、そこに疑問を持ってしまうとどうしても納得いかない気持ちばかりが残る。時代設定などはある程度押しつけられるのもやむなしだけど、主人公に絡む感情面でそれをやられるとシラけちゃうんだよなー。私には別にこの吉之助を愛する理由が見当たらないからさぁ。どちらかというと吉之助に反発する人に深く共感してしまうんだよな。

とにかく大島編は愛加那をはじめとする島の人々の躍動感が素晴らしく、いずれ島に戻る吉之助を精一杯愛する愛加那の演技が印象的だった。願わくば、吉之助がその愛に相応しい魅力を持った男だと思わせてくれたらなお良かったけど、そこはいまいちピンとこなかったのが残念…やっぱり、誰にでも情が篤いというのは一歩間違うとただの不誠実に見えて諸刃の剣だと思うんだよなー。もう少し吉之助を押せる材料が欲しい。

西郷どん 第20回「正助の黒い石」

大久保正助覚醒の回。この回だけ見ると、正助は時期が読めて取り入る相手を見定めることが出来て裏工作も出来て、吉之助に羨望を抱いていて寡黙で真面目な若者に見える。その人物像はすごく魅力的だ思うのだけど、これまで見てきた自分にとっての正助ってもっと明るくて熱血でいざという時にヘタレみたいなイメージだったので、いつの間に人が変わったんだ…と困惑する。そしてその人が変わった理由もタイミングもサッパリわからないので、物語に取り残された気になる。

でもこれ、多分作っている方はあまり気にしてないんじゃないかなぁと思い始めた。今年の大河の制作側にとっては、要はその週の40分間でドラマチックにまとまっていることが大事なのかも。その結果、以前とは微妙にキャラクターの性格が異なる描写が出てくるけど、それは「成長」だったり「二面性」だったりだと勝手に判断して欲しいのかも。私は成長や二面性をキッチリ演出として見たい派だけど、みんながみんなそういうわけでは無いだろうし、役者さんの演技で勝負するドラマだと思えば、これはこれでアリなんだろうなぁ。(何度も自分に言い聞かせる)

久光の碁の相手をして、その才能を見いだされるという設定、これって史実なんだろうか。忖度してわざと負ける家臣ばかりだから、全力でねじ伏せてきた正助に興味を持つというのは一つの納得エピソードではあるんだけど、ドラマを見ている限り、正助の方もそれ(=久光に一目置かれること)を見越して勝負を挑んでる感があって、その手腕が見え透いている上に大した策じゃないあたりが、何というか小者感というか、小賢しい感じになってしまっていて、なんだかなぁって気持ちになったりする。冷徹な参謀を目指しているけど器が足りていない感がすごいので、これが狙ったキャラ設定だとしたら演技的にすごいんだけど、本当にそんな狙いなんだろうか…これまでの積み上げ的に、そんな複雑な人物設定する?というそこはかとない疑いの気持ちが。

あと、正助に「国父様」と言われてすぐその気になっちゃう久光、めっちゃ最高だったな!偉大な兄である斉彬に対する敬愛とコンプレックスがない交ぜになってるあの感じ、とても素晴らしかった。兄と比べるとどうしても見劣りしてしまい、自分でもそれを自覚していて、でも藩主の父としての自負もあり、そこを擽られるのは嬉しい。でもやっぱり兄は純粋に尊敬してる。そういう混じり合った複雑な感情をチャーミングに見せてくれるよなぁってしみじみ思う。青木崇高さん最高!

西郷派(=斉彬派)から久光派に鞍替えしたように見える正助に対して、仲間たちの反発。私自身にあまり覚えようとか調べようとかの意欲が無いのが一番の理由なんだろうけど、あまりに仲間一人一人の印象がなさ過ぎて、誰が誰だかいまだにわからない。北村有起哉とかろうじて堀井新太だけ(見た目で)判断つくものの、同じような顔の人が同じように吠えてるだけという印象。もうちょっとこう、仲間たちの背景を調べたくなるようなキャラ付けをですね…せめてもう少し名前と性格が結びつくような何かをですね…。

桜田門外の変はあっさり気味だった。以前、時代劇の裏話?的な話題で、雪のシーンはリアルなセットを作るのが手間&コストが高いという話を聞いた記憶があって、それ以来雪のシーンを見るたびにそのことを思い出す。今回の桜田門外は「ずいぶんコスト削ってきたなぁ」という印象の強い演出だった。無いよりいいけど!無いよりいいけど!!でも佐野史郎さんの井伊直弼の演技は素晴らしかった。最期まで憎らしいくらい冷静で毅然としていて、目指す方向は違ったけど、井伊直弼もやはり己の正義のために命をかけたんだろうなぁって思えた。

正解するカド 12.5話

全12話を2時間にまとめた総集編がYouTubeで期間限定公開されてたので見てみた。映画的に再構成という売り文句だったけど、実際に12話見てる側からはただのつぎはぎの総集編にしか見えなかった…ただそれまぁ12話を見た後だからだとは思う。思うけども。

テレビ版の正解するカドはいまだに許していないけど、それでも12.5話を見ようと思ったのは、制作者が本当に作りたかった結末を盛り込んでくるかもしれないと思ったのと、制作者がテレビ版の何を「不正解」だと思ったのか興味があったから。嫌いな作品だけどインパクトだけは抜群だったし、制作側には制作側なりのポリシーがあって、それが自分に合わなかっただけだと思っているので、それなりに「お手並み拝見」て思いながらもある意味での期待を込めて見たのだけど。

結果的には叩かれまくった突然の恋愛要素をなかったことにしてつなぎ合わせただけの、つまんない作品に成り下がったなという感想だけが残った。想像以上にガッカリした。恋愛要素を削ったことで最凶のオチでもあったユキカの存在が幻となり、意味ありげな表現ではあるけど実は中身が空っぽな、のっぺりした結末になってしまった印象。確かに恋愛要素はクソミソに叩かれてたけどさ…だからってこれでもかってぐらい削って、それ以外を繋ぎ合わせればそれでいいのかよ…本当に何がしたかったんだ、制作陣…あの超展開がやりたくて作った作品じゃなかったのかよ…

テレビ版の正解するカドは許さないけど、許さないなりに制作者側はあのラストをどうしても見せたいから作ったのだと思っていた。私は嫌いだけどそれを好きな人に訴えかけたくて作った作品かと思ってたんだよ。それが、ちょっと(ではなかったけど)叩かれたからってサクッと消してしまえる程度のこだわりだったのかよ。制作側がドヤ顔で突きつけて来た結末だからこそ胸を張って「嫌い」って言えてたのに、なんかもう私にとっては「嫌い」と言う価値もない作品になってしまった感…ほんとにどうしてこうなった。

そうは言っても、改めて見るとやっぱり前半は神なんだよなぁ。具体的に言えばテレビ版の7話までの展開は本当に神。ワムやサンサという超テクノロジーをいきなり突きつけられた人類がどう反応し、どう決断すべきか?という思考実験ぽくてワクワクした。日本政府がワムを提供されて、国連が取り上げて独占しようとする流れから、ワムの作成方法を全世界に配信するまでの流れは本当にゾクゾクするくらい面白かった。そこにはSFだけに留まらない無限の可能性があったと思う。クッソつまんないサイヤ人展開で全破壊して終了というのは無限の可能性のうちの(私にとっては最悪の)一つだったけど、それでも一応終わらせようという意思は感じ取ることが出来た。でも今回は終わらせることを放棄したんだなって印象。わからないところはテレビ版見てねってことなのかもしれないけど、これ見てテレビ版見る気になるかは…どうなんだろう…?

  • ザシュニナは最初から「考え続けることが正解だ」って言ってたんだね。今回見て初めて気付いた。
  • ザシュニナに感情が生まれる過程、尺が短い分よりダイレクトに伝わってくる構成になってるのは良かった。
  • カド移転作戦の映像が何度見ても面白い。立方体が転がってるだけでなんであんなに面白いんだろう。
  • 花森君が不憫枠から存在感無い枠に所属替えになってた。どっちが良かったんだろう。
  • サラカも存在感無かった。異方存在であることが全くサプライズにならなかったもんな。
  • そういえば交渉というテーマ性はほぼ皆無と言って良かったな!?そこもいらなかったの!?
  • 首相が人間として誠実なのは改めて素晴らしいと思った。人間的に尊敬できる首相描写って珍しいと思う。

西郷どん 第19回「愛加那」

絵に描いたような悪代官な平野様@真田丸(今作の代官としての名前は田中某)に砂糖を隠し持っていたという濡れ衣を着せられた佐民たちを、吉之助が熱い演説と怪力で救い出し、その結果とぅまを妻とした回。物語に破綻は無いし、役者の熱演には目を奪われるし、奄美大島美しいし、楽しく見ているのだけど、やっぱり所々引っかかってしまう。

先週「殿は民のために」「私たちは民ではなかった」というやり取りをしたことで、吉之助の中の斉彬像が変わるか!?価値観の変革が来るか!?って思ったけど、今週見る限りでは吉之助の脳内では「斉彬の真の想いを代官クラスが理解していなかった」となっているように見えたので、結局そこかよ!?信者安定だな!?みたいな気持ちに。ガッカリだよ。代官田中のセリフから、薩摩にとっての砂糖の重要性は伝わってくるのだけど、斉彬が過剰な取り立てを是としていたか否か?は結局読み取れないんだよな。「富国強兵」の名の下に湯水のように重税で取り上げた金を使った藩主斉彬、という側面は面白いテーマになると思うのだけど、今のところ物語上の厚みにはなっていない感…今後なるの…?

吉之助の現在の藩内での立場というか扱いが良くわからない。月照の逃亡を助けたことで幕府に目を付けられている?ので行方不明とするために偽名で島送り?というのが、ドラマだけ見てる上での予測なんだけど、島送りしてまで吉之助を守りたいという藩内の空気がさっぱり感じられず(正助だけが必死だったように見えた)、吉之助が薩摩藩内でどういう存在感なのかも不明で、実家はあんなに困窮してるのに米俵が送られて来てたから藩内の偉い人に協力者がいるんだろうとは思うんだけど、それって誰?どういう理由で?何を目的に?ってわからないことだらけで困惑する。そもそも吉之助ってこの段階でそれほどVIP扱いされる立場なの??いや、歴史上はそうだったのかもしれないけど、ドラマ見てる限りは典型的な「斉彬の個人的なお気に入り」にしか見えず、藩内で重要視されてるようには見えないんだが…。正助からの手紙にも「悪目立ちするな」って書かれてたし、一方で田中某@代官は正体を知って顔色変えてたし、どう考えればいいのかわからない。今後見てたらわかるのかもしれないけど、前提知識なんだから最初に説明して欲しい。

とぅまの感情の動きは、二階堂ふみさんの演技の凄さもあってめっちゃ良くわかる。もともと「やまとんちゅ」が嫌いなのに、事前に「お前の夫が来るよ」って言われてたから、最初から気になる存在ではあったんだろう。島の風習を理解しようともしない「おなごが入れ墨など」「こんな飯が食えるか」の言葉に印象最悪からスタートして、それ故に悪代官を恐れずに島の子どもを救おうとした姿に好感度が急上昇ってヤツだよね。吉之助の滲み出る人間的な朴訥さにコロリとやられた人間の一人でもあるんだろう。そういう流れを想定しているというのはわかる。ちゃんと読み取れる。わかってるんだよ。たださぁ…。

やっぱり吉之助が奄美大島と薩摩の関係に何の答えも出していない状況で、あそこまで突然「妻にして欲しい」ってなるのは唐突すぎた感ある。そういう筋書きが決まっていて、そのために強引にエピソードを盛った感が強かった。尺があるからね…仕方ないんだけどね…。見てるときは二階堂ふみさんの演技でねじ伏せられるんだけど、改めて考えると「吉之助にそこまで惚れる要素あるか?」と思っちゃうんだよなぁ。そういう意味では、本当に役者の演技力が素晴らしい作品でもあり、そういうところを楽しむのがいいんだろうなぁ。